ご挨拶

兵庫県西宮市山口町船坂は、明治から昭和にかけて糸寒天作りが、昭和40年代にはパセリ・ほうれんそうなどの高原野菜が盛んに生産された時期もありましたが、高速道路網の整備や専業農家後継者不足などにより休耕田が増えました。少子高齢化により木造校舎の船坂小学校も、平成22年3月に残念ながら137年の歴史に幕を下ろしました。阪神間の都会に間近でありながら自然豊かな里山を維持できた背景には、市街化調整区域を広く抱えていたことがあります。そのお陰で山あり谷あり棚田ありの日本の原風景ともいえる長閑な光景が箱庭のような区域に残っています。

有馬温泉への湯山古道に沿って茅葺古民家など歴史文化の残る船坂地域を舞台に、芸術祭を開催することによって、農地を活用した新しい産業を軸とした地域活性化のきっかけにしたいと、地域住民の主導で運営されてきました。船坂小学校の廃校後も、「船坂新聞の発行」「手造りジャム」「手打ち蕎麦」「船坂里山学校指定管理」など新たな地域活動が生まれ、少しずつですが若い世帯のUターン、Iターンもみられるようになりました。

2009年のプロローグでは参加アーティスト15名、来場者約5,000人、2010年の第一回展では参加アーティスト32組、来場者約20,000人を迎え、アートという新たな視点から船坂の豊かな自然や人情味に触れてもらうことが出来ました。2010年は「つながる」をテーマに開催しましたが、ゆったりとした時が流れる船坂の地で人と人がつながるきっかけとなりました。この地は、1995年に阪神・淡路大震災で家屋の全・半壊を経験しました。そして2011年に、日本は東日本大震災という未曾有の災害に見舞われました。あの現実を目の前に突きつけられた私たちははじめ、事の凄惨さに震撼し生き残った者が何をなすべきかさえすぐには見出せないほどでした。人と人のつながり…その意味の大きさを認識することとなった私たち。今こそ、人と人の関係性を様々な視点からあぶり出し、それらを検証するという作業が必要であると考えました。

そして2012年は、「結(ゆう)」をテーマとして、参加アーティスト数は50組近くに及び、来場者数は約25,000人を数え、様々な可能性を見出すことが出来ました。「ふね、やまにのぼる」という作品は、西宮浜の流木で作った「ふね」が船坂まで担ぎ上り、東北・福島をつなぐプロジェクト型作品として参加したことも特徴でした。その一方で、この小さな里山での芸術祭の規模が、主催者である船坂地域の人口(500人強)とのバランスにおいて限界に近かったことから、参加アーティスト数の検討をする必要性が生じました。 推進委員会は、2012年総括会議で芸術祭を通じて人と人の深い交流が生まれ、その交流が地域に活力を生むとの認識を確認しました。

2014年は、「感孚風動(かんぷふうどう)」をテーマに開催し、地域の人々もアーティストもボランティアスタッフも来場者も協働者も、皆が共に心動かす体験を同時に共有できる芸術祭として開催しました。アーティストは、ディレクターによる招待方式から推進委員会による公募方式に変更し、参加作家数も2012年の半数の25組としました。来場者の皆様には、アートがどのように介在し地域を変えてゆくのか、その過程をサイトスペシフィックな美術表現を愉しみながら、地域女性たち手作りの「船坂ランチ」や新鮮な船坂野菜販売で、ゆったりとした船坂の時間を過ごしていただきました。

そして2016年の春、行政から「今年は一旦一息入れて、開催以来7年間(2009年~2015年)のビエンナーレを専門的に検証してみたらどうか」という提案がされ、地域住民30名で組織する推進委員会で2か月間検討しましたが、これまでと同様、作家・作品・来場者と船坂地域住民の関係を大切に継続し、一息入れることなく今年もビエンナーレを開催することとしました。推進委員会では、作家に船坂へ来てもらい地域も協力して作品を制作し、そして来場者が船坂の里山風景の中で作品鑑賞を楽しみ、船坂の魅力を感じていただくことが地域活性化に繋がることを再認識しました。

残念ながら2016年は、専門家ディレクターは不在ですが、「大地に還る」をテーマに、推進委員全員ディレクターとなって船坂地域活性化のきっかけづくりを目的に、初心に還って準備と運営を全力で頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。


2016年6月28日

西宮船坂ビエンナーレ2016ディレクター:船坂里山芸術祭推進委員会
(推進委員長 松本義博)
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